「普通であることの勇気」って?私なりの解釈。ードラマ「嫌われる勇気」を見てー

木曜22時から放送中の「嫌われる勇気」。

このドラマは賛否両論巻き起こっているようですが、

アドラーについて深く知らない私は、

アドラーがどんなことを唱えているのか、知りたいので見ています。

 

先日の放送では「普通であることの勇気」について述べられていました。

 

「普通であることの勇気」って、

えっ?普通で良いの?って、頭がはてなでいっぱいになって、

眠れなくなるくらい考え始めてしまいました(笑)。

 

普通であることを避けてさえいたのに・・・。

 

私は「普通」でありたくなくて、動いている。

 

私は、今までも、今、この瞬間も「普通」であることを嫌って、

何か個性とか特徴を持った存在になりたくて

動いているんです。

 

セミナーに通うのも、『普通』の人生にしたくないからだし、

「ハンドメイドのものを作りたい」と思うのも、

『普通』から抜け出したいからだし、

人に紹介されるときに、「いたって普通の人だよ」なんて紹介されたら、

心の奥で”つまらない人ってことだな”ってかなり落ち込むと思う。

 

差別化や個性が良しとされる今、

『普通』であることは、悪に近いものですらあるのに、

普通であることの勇気を持つ、

ってどういうことなんだろう??

って、全然、呑み込めないんですよね。

 

普通≠無能。 普通=無能ではない。

 

ドラマの中では、普通を無能だと捉える人が多いと言っていました。

 

確かに、普通って、良くもなく悪くもない状態で、

秀でた才能もなく、突き抜けたものが無い、ということですよね。

 

私も、普通を無能と捉えている人の1人です。

 

だから、普通であることの勇気を持ってしまったら、

現状に満足して、これから何も成長せず、

何も変わらずにい続けて良いということになる。

 

目標も目的も何も必要ないということになってしまう。

 

何も成長しない、変わらないことを私は選べるんだろうか?

 

今、ココを生き、充実していればそれで良い。普通で良い。

 

ドラマ内では、若手刑事が次のようなことを話します。

 

オリンピックで金メダルを取った人は、

金メダルを取るという、『普通』ではない、特別な存在になりたくて、

計画・行動してきた結果、金メダルが取れたのだ。

 

 

そこで、アドラー心理学の教授にこのようなことを返されます。

 

オリンピックで同種目で金メダルを取れるのは1人しかいない。

金メダルを取れなかった人の人生は失敗だったのか?

 

特別を目指す生き方というのは、

金メダル以外を認めない生き方だ。

 

たとえ、金メダルは取れなくて、特別にはなれなくても、

目指していた結果と違う結果になったとしても、

過去でも未来でも無い、”今” ”ココ” が

充実していれば、それでいい。普通でいいのだ。 

 

言っていることには矛盾が無くて、納得できるんですが、

ここに来ても、わかったようなわからないような。

 

じゃあ、金メダルを目指すことを

わざわざ選ばないんじゃないかと思うんですよね。

 

特別になろうとしたけど、なれなかったらそれはそれで良い、と思ったら

人は努力せず、そこそこの努力しかしない。

そこそこの努力をするくらいなら、そもそも目指さなくていい。

 

結果、やっぱり成長しなくていいということになる。

成長しないという人生は、私は選択したくない、と思えるんですよね。

 

 

 

『普通』とはどういう意味か?

 

そもそも『普通』とはどういう意味なのか?

google(グーグル)で検索してみました。

 

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ふつう(普通)

いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。

他と特に異なる性質を持っていないさま。

※引用:google検索より

 

よくよく意味を見てみると、

普通って、他との比較で成立している言葉なんですね。

 

ありふれたものであること。

それは、どうやって”ありふれたもの”と決めるのでしょうか?

世間一般と比較して、ありふれていると決める。

 

他と特に異なる性質を持っていないさま。

→持っている性質を、他と比較して、異なっていないと決める。

 

普通という言葉は、他と比較して、自分でそう決めているだけ

の言葉にすぎないんですね。 

 

他との比較によって、『普通』を避ける必要は無い。

 

結局、私は「普通であることの勇気を持つ」ということは、

こう解釈しました。

 

他人と比べて、私の今できていることなんて大したことが無いとか、

世間一般から見て、私は仕事ができないと思う必要は無い。

 

逆に、優越感で、

他人と比べたら、私の方が仕事ができるとか、

世間一般から見たら、頭が良い方だとか思う必要もない。

 

自分の中ではなくて、

他との比較で、自分は劣っているとか優れているとかの判断をして、

普通でいたくないと思う必要は無いということ

なんだと。

 

自分がこうなりたい、こういうふうに行動したいと思うのではなく、

自分の気持ちは置き去りにして、

人に負けたくないから、世間から嫌われたくないから

という

他と比較することで生まれた理由によって、

普通を避ける必要は無い、ということ。

 

いつでも自分に質問し続けよう。今、私は居心地がいいのか?

 

結局、いつも答えは「自分」の中にあるということなんですよね。

 

自分にとって充実しているのか?

自分が気持ち良いと感じているかどうか?

 

自分が気持ち良いと感じているならそれで良い。

自分が充実していると感じるならそれで良い。

 

ここまで来て、私がいまいち納得できていなかった

疑問の答えはこうなった。

 

Q.普通であることの勇気を持つということは、

  現状に満足して、これから何も成長せず、

  何も変わらずにい続けて良いということか?

 

→A.:NO。※ただし、自分の為の成長であるならば。

 

 

人と比べて特別でありたいという理由で成長するのは、

もう、自分がどっかにいっちゃってますからね。

 

自分は自分を生きている。

 

 

 

他人に「普通だね」と言われても、無駄に凹まず、

自分に質問し続けよう。

今、私は充実しているのか?居心地がいいのか?

 

自分が充実しているなら、他人がどう思うと関係ない

ということですね。

 

では、また!